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学都仙台コンソーシアムとは

学都仙台とは

概要

 「杜の都」仙台は、古くから「学都」としても知られています。
 学都仙台が発展を遂げてきた歴史と、現状、近年の環境変化をご紹介します。

歴史

 「学都仙台」の基礎は、仙台藩の藩校「養賢堂」にさかのぼることができます。
 いつ頃から「学都」と呼ばれるようになったのか、定説はありませんが、既に明治40年(1907年) 12月の地元紙に「学都と学界」という標題の記事が見られ、大正年間にも「学都」の呼称が印刷物に見られるなど、100年以上の歴史を有しています。

現状

 学都仙台には、多様な教育機関が集積し、そこでは多くの学生、留学生が、教員とともに学び、研究することで、高度な研究機能の集積が形成されています。

歴史

泰心院山門(旧仙台藩藩校養賢堂正門)

泰心院山門(旧仙台藩藩校養賢堂正門)

 仙台が「学都」としての名声を確立したのは古く、既に明治40年(1907年)12月の地元紙に「学都と学界」 という標題の記事が見られ、大正年間にも「学都」の呼称が印刷物に見られます。
「学都仙台」の基礎は、仙台藩の藩校「養賢堂」 及び明治6年(1873年)に設置された宮城師範学校にさかのぼることができますが、 仙台の学都としてのイメージ形成に大きな役割を果たしたのは、明治20年(1887年)に設立された第二高等中学校(明治27年(1894年) 第二高等学校)と明治40年(1907年)に設置された東北帝国大学です。

 明治19年(1886年)の中学校令により、尋常中学校が各府県に1校、高等中学校が国直轄として全国に5校(東京、仙台、京都、金沢、熊本) が設けられることとなり、明治20年(1887年)、仙台には第二高等中学校が開校しました。
 また、明治40年(1907年)には、 仙台市や宮城県をはじめ、東北、北海道の各道県が協力し、仙台に帝国大学を誘致しようという10年の歳月をかけた運動が実り、 東北帝国大学が全国で3番目の帝国大学として仙台に誕生しました。

 同時期、私立学校は中等教育機関の充実に大きな役割を果たしました。
 明治19年(1886年)には私立東華中学校、仙台神学校、宮城女学校、明治25年(1892年) には尚絅女学校、明治26年(1893年)には仙台女学校が開校しています。
 こうした中等教育の普及に促され、明治34年(1901年)には仙台医学専門学校、 明治37年(1904年)には東北学院専門部、明治39年(1906年)には仙台高等工業学校などの高等教育機関があいついで設置され、「学都仙台」の基礎が築かれたのです。

多様な教育機関の集積

 東北大学などの総合大学に加え、教育、福祉、薬学、工学など、個別の専門分野で優れた人材の育成を目指す大学等もあり、多様な高等教育機関の集積が見られます。

 これらの大学等が、それぞれの建学の理念や時代の潮流を踏まえながら研究・教育を推進してきたことが、今日の「学都仙台」の発展につながっています。

学生・教員・留学生等の集積

 多様な大学等の集積は、そこに通う学生や、そこで教える教員の数の多さに結びついています。
 彼らが街に繰り出し、いわば「大学城下町」を形成して、都心に賑わいをもたらしていることも、学都のイメージ形成につながっています。
 大学等に通う若者、そこで教える教員等は、学都仙台にとって重要な「資源」なのです。